停車駅を知らせる麗らかなアナウンスで、僕は目を覚ました。
目を擦りながら辺りを見渡すと、そこには様々な年代の人々が座席に座っていた。それら視覚的情報と鼻腔をくすぐる独特の匂い、さらに心地よい振動から、自身が新幹線の車内にいることを理解した。
スライド式のテーブルには、乗車駅で買った有名な牛肉の駅弁が広げられていた。中身は残ったままだった。状況から見るに、僕は昼食として購入した駅弁を食べている最中に寝てしまったようだ。二十四歳にもなって食事中に寝落ちするとは何とも情けないが、それも仕方ない。昨日の仕事は入社して数年が経過した僕が、久々にキツイと感じるほどの激務だったのだから。
大きな欠伸を漏らしながら、残ったおかずを口に運んだ。寝起きに牛肉は腹に響いたが一気に掻き込んだ。お茶で口内の咀嚼物を喉に押し込み、窓に掛けられたロールカーテンを開いた。
窓の外の景色を見た。視線の先に流れる風景は、活気ある備後都市圏の街並みを余す事なく映していた。しかし、残念ながらそれらの景色が僕を新鮮な気持ちにする事はなかった。
「次は、福山駅」
アナウンスが再び停車駅を述べた。僕は下車の準備をしながら、流れ行く景色に視線を向けた。一瞬だけ映るスーパーや遠くで時折姿を表す商業施設の看板を見るたびに、僕の脳裏にはその場所で過ごした記憶が淡く蘇ってきた。
福山で過ごした日々の数々は、緩やかな速度で色彩を帯びていき、やがて映像として僕の前に現れた。それらの情景に触れると、僕の心情には温かな想いが込み上げた。しかし、全ての思い出が僕を和ませる訳ではなかった。福山駅に到着する間際、刹那に浮かんできた一つの映像は、それまで懐かしさに浸っていた僕の心情を侘しさで包んだ。
新幹線は速度を落とし、停車した。僕は荷物を持ち福山駅のホームに降り立った。人の流れに身を任せ、改札口まで歩き、福山駅の北口に出た。この福山という都市には、市のシンボルとして親しまれている建造物があった。それは僕のすぐ目の前に存在した。
福山城だ。
日差しに目を細めながら、僕は福山城を眺めた。福山駅の北側のマンションやビルが立ち並ぶ一角に佇む荘重な福山城は、周囲の空間から乖離され、その場所だけが時代から取り残されているような、そんな錯覚を僕に起こさせた。
福山城は一国一城令発布後の元和八年に、徳川家康の従兄弟である水野勝成が毛利氏などの西日本における有力外様大名の監視及び抑えの拠点として建設された城である。それ以来、この城は福山の発展を見続けていた。
しかし、僕が見ているこの城は本来の姿ではなかった。福山城は昭和二十年、福山大空襲の折に伏見櫓と筋鉄御門を残し、その殆どが焼失してしまった。その後、昭和四十一年に鉄筋コンクリート構造で、天守、月見櫓、御湯殿が復興された。今僕が見ているこの福山城は、焼けた福山城を忠実に再現したものだった。
福山城を一瞥して目を背ける。僕はあの城を苦手としていた。それは見た目が嫌いと言う訳ではなく、初代藩主である水野勝成が気に入らない訳ではなかった。ただ僕の心情が福山城を苦手としているだけだった。
福山城を尻目に、僕は停車しているタクシーに近寄った。タクシーの側に佇んでいた年配の運転手が僕の存在に気付いた。僕は「実家まで行きたいんですが?」と尋ねた。運転手は笑顔で頷いた。僕はタクシーに乗り込んだ。
「お客さん、実家はどちらで?」
運転手に尋ねられて、僕は実家の住所を教えた。運転手は慣れた手つきでナビを弄り、タクシーメーターを設定した。
車が動き始めた。エンジン音に耳を澄ませながら、改めて福山の景色を眺めた。
地元を出て数年が経つが、久しぶりに見る福山の景色は、僕に懐古的な印象の他に僅かな新鮮さを与えた。新幹線からの景色では気づかなかったが、街は僕がいた当時の面影を保ちつつも、確実にその姿を変化させていた。僕が通った店は消失し、その場所には見たことのない新たな店が鎮座していた。そのような風景を見ては、僕はその場所にどのようなお店が建っていて、僕はそこでどのような記憶を紡いでいたのだろうか、と自身の深層に探りを入れたりした。
「お客さんは帰省しに来たんですか」
運転手が尋ねてきた。僕が、えぇ、と短く答えると、運転手は怪訝そうな表情を見せた。
「こんな時期に帰省とは、珍しいですね」
確かに、彼の言う通りこの時期に帰省する人間などいやしないだろう。あと数ヶ月もすれば年末が訪れる。大体の人間は年末年始に帰省し、懐かしい仲間と共に仕事の愚痴を言い合い、大騒ぎをすることだろう。運転手が訝しげな感情を向けることは、理解できないものではなかった。
「まぁ、色々ありまして」
「色々、ですか?」
僕が答えると、運転手は興味ありげな口調で僕の言葉を催促した。僕の経験上、タクシーの運転手という存在は、乗車客と会話をしたがる人間が多いように思われた。それは道路を延々と走るという単調な作業に少しでも刺激を齎したいためか、それとも眠気を飛ばすための手段か、あるいは年配であるが故なのか。僕には分からなかった。
「仕事終わりに、ふと地元に戻ろうと思い立って、新幹線のチケットを取って、勢いに任せて福山に帰ってきたんです」
「ほぉ、それはそれは。若いですねぇ」
僕の返答に、運転手は嬉しげな様子だった。
「若いですかね?」
「若いですよ、とても。私も貴方のように無計画に物事を進めていた時期がありました。今は年老いて、そのようなことをする気力も度胸もなくなりましたが、その当時の事を時々思い出しますよ」
「そうですか」
僕は息を吐いて背もたれに寄りかかった。僕がいま起こしている行動が、若さがために引き起こされたものであったなら、僕はどれだけ幸せだっただろうか。少なくとも、僕が福山に戻ってきたのは、ただの単純な思いつきという訳ではない。確かに、地元に帰ろうと決意したのは昨日の仕事終わりではあったが、しかし、その考えに至った経緯を振り返ってみれば、きっと僕が福山に行こうと思った事は偶然ではないはずだ。
「お客さん、これはお節介かもしれませんが、若いうちは色々な事を体験しておくべきですよ。若いうちに沢山の事を経験しておけば、年老いた時に、何が大切であるかを簡単に図ることができます。仮に経験した全てが自身にとって重要な事柄にならなくとも、きっと何処かで何かしらの役には立ちますから」
「…そうですね、ありがとうございます」
運転手に礼を言った。運転手は、いえいえ、と細々と呟き、運転に集中した。
若いうちは色々な事を経験しろ。その言葉を僕は親を筆頭に、学校の先生やバイト先の先輩、会社の上司など多くの人々から教えられてきた。僕自身もそれは大切な事であると理解している。様々な事を経験すれば、その分だけ社会のあり方や自身の身の振り方を学び、理解することができるからだ。
しかし、だからと言って、全てを経験する必要はないのでないだろうか。幾ら経験が多くの恩恵を齎すとしても、それらの経験の中には、自らを傷つけるような陰惨なものもあるに違いない。僕はそんな経験をしてまで、万物を理解したいとは思わなかった。
「お客さん、ここでいいですか?」
僕は顔を上げた。目的地に到着したらしい。運転手に料金を渡し、礼を言って車内から出た。実家を前にして佇んだ。久々に見る自宅は、あの当時から代わりがないように思われた。しかし、僕はこの街に懐かしさを感じにやってきた訳ではない。ましてや、家族と思い出を語りにきた訳でもない。
ただ、やり残した事を成しに来たのだ。目を背け続けたものと向き合う為に、そして、彼女と会うために、僕はこの場所に立っている。その心意気を忘れぬように、僕は荷物を持って実家のインターフォンを押した。
(続きにおきましては、福山城公園内にて閲覧できます)