彼女が死んで、一年が経った。僕は彼女を思いながら今を生きていた。
最愛の人を失った後の人生は陰惨なものだった。生きている事がバカらしくなり、何度、彼女の後を追いかけようと考えたか分からない。それでも、結局僕には覚悟などなく、死を慢性的に考えながらも、アルバイトを転々としながら無様に生きているのだ。
休日、僕は出かける事にした。彼女が死んで、外に出る意義を失い、仕事以外では外出しない引きこもり体質になっていた僕だったが、その日だけは外に出ようと決めていた。
今日は、僕と彼女との、言わば記念日のようなものだった。故に僕は、彼女との思いでを振り返ろうなんていう、未練がましい念に動かされて外出したのだ。
福山駅前に赴き、僕は鞆の浦行きのバスに乗り込んだ。福山駅から鞆の浦までは、約三十分ほどの道のりだった。
バスが出発した。僕は瞳を閉じた。いい機会だ。鞆の浦までの時間、僕は自身の、そして彼女との思い出を整理する事にした。
僕と彼女は、高校からの付き合いだった。仲良くなるきっかけは忘れてしまったが、気付けば僕は、彼女と腹を割って話せる仲になっていた。仲良くなり、友人として彼女と接していく中で、彼女の存在は僕の中で大きなものに変化していた。
卒業式の後、僕は彼女を体育館裏に呼んだ。
「何か用?」
済ました表情で、彼女は体育館裏にやってきた。しかし彼女は、僕が告白する事に気づいていた筈だ。そう考えた僕は、回りくどい言い方など用いず、短文で自身の気持ちを彼女に告白した。
「…そう」
小さく呟くと、彼女は僅かに視線を下に向けた。そして僕の言葉を受け入れてくれた。
僕の恋心が実ったその瞬間は、僕の人生にとって最もの幸福だった。僕が長年抱いていた愛が報われた幸せは、言葉では名状しがたいものだった。
しかし、僕と彼女が二人でいられる時間は少なかった。
僕と彼女は、それぞれ別の大学に進学する予定だった。僕は地元の、彼女は県外の大学だった。初めての恋愛が遠距離恋愛という事もあり、不安はあったが、僕は彼女を信じていたし、当然愛していた。
彼女が福山を去る前日、僕たちは初めてのデートをした。その場所こそ、今向かっている鞆の浦だった。
僕は揺れる車内の中で古びた情景を浮かべた。
初めてのデートは緊張し、それでいて妙な気恥ずかしさが混じっていた。それでも彼女と、友人ではなく恋人として肩を並べられる事に嬉しさを感じていた。
彼女は博識な人間で、僕の知らない事を数多に知っていた。鞆の浦にある仙酔島へ向かうため渡船場に訪れると、彼女は渡船場に向かいにある石碑を指差した。人の背丈ほどある大きな石だった。
「ねぇ、あの石知ってる?」
彼女は僕に尋ねた。無知な僕はかぶりを振った。
「あの石には、歌が刻まれているの」
遠目から見ると、確かに石には言葉が刻まれていた。僕たちは石の目の前まで歩き、刻まれた文字を見た。
「これ、なんて書いてあるんだ?」
万葉仮名で刻まれた文字を、教養のない僕は読む事ができなかった。
「吾妹子が見し鞆の浦のむろの木はとこ世にあれど見し人ぞなき、よ」
彼女は呟いた。
「どういう意味かさっぱり分からん」
僕は眉を顰めて、彼女に尋ねた。
「この歌は、大伴旅人と呼ばれる歌人が残した歌よ。彼が鞆の浦に立ち寄った時の歌で亡き妻をしのぶ気持ちが歌われているわ」
「はぁ」
彼女の説明を聞いても、僕は理解できず間の抜けた声をあげた。
「大伴旅人は、長官として太宰府に向かう前に鞆の浦に寄り、妻と共にむろの木に海路の安全を願ったそうよ。でも、太宰府に赴任した後、共に着いてきた妻を亡くすの」
「それは…悲しいな」
「えぇ、そうね」
憂いを帯びた声で彼女は答えた。
「大宰府で三年ほどの任期を終えて奈良に帰る途中、大伴旅人は再び鞆の浦に寄り、妻と共に見たむろの木を眺めたそうよ。妻と見た鞆の浦のむろの木は変わらずあるのに、あの時一緒に見た妻はもういない。変わらない自然と、亡くなった妻の魂を比較して、人間の儚さや自身の侘しさを歌っているの。いい歌でしょう?」
「いい歌だとは思うけど、自分がそうはなりたくないな」
「そうね。大切な人を亡くすなんて、想像できないわ」
彼女は真面目な顔で僕を見た。
「安心しろって。僕はそう早くに死にはしないよ」
僕は冗談交じりに呟いてみせた。
「え、私、貴方が大切な人間だなんて、一度も言ってないけど」
「あれ、俺たち付き合ってるんだよね?」
僕が驚くと彼女は笑いながら、冗談よ、と言った。
「貴方が死んだら、私はきっと大泣きするわ」
「僕だってそうだよ」
「そう、なら良かった」
僕の言葉を聞いて、彼女は柔らかく微笑んだ。鞆の浦のデートでは様々な思い出があるが、その瞬間だけは強く記憶に残っていた。
その後僕たちは、別々の大学へ進学した。彼女には夢があり、その夢を叶えるために県外の学校へ向かった。僕はそれを彼女から聞かされていたため、彼女の夢を応援した。
彼女から夢の話を聞いて、僕には心境の変化があった。僕も夢を持つようになった。思えば、彼女から大伴旅人の歌を聞いた際に、その夢は無意識に僕の裏側で生まれたのかもしれない。
僕は、小説家になろうと思った。
当時の僕は小説を好んで呼んではいたが、小説家になろうとは思っていなかった。ただ漠然と、小説が書ければいいな、なんて考えていた。
しかし、彼女の夢に対する姿勢に感化されて、僕はその夢を抱くようになった。大学生になった事で、時間に余裕ができ、僕は多くの本を読み、執筆をした。彼女が頑張っているのだから、僕も何か目標を立てて情熱を注がなければならない。そうでなければ、僕は彼女に相応しい人間にはなれない。
そう思い、僕は小説家という目標を自発的に打ち立てた。
僕はその夢をすぐには彼女に報告しなかった。気恥ずかしさがあったのも理由の一つだが、僕は自身の夢を電話や言葉ではなく、直接彼女に話したかったのだ。しかし、僕たちが会える機会は少なかった。何せ長距離恋愛だ。そう簡単に会えては長距離とは言わない。そのため僕たちは、できるだけ互いの予定を合わせ、会える時間を増やした
「あのさ、俺、夢ができたんだ」
「夢?」
「あぁ、俺さ、小説家になりたいんだよ」
大学生になって初めて再会した日に、僕は小説家になりたいという夢を彼女に語った。
「君を見てると、僕も夢を持ったほうがいいのかなって思って。だから夢を持つ事にしたんだ。まぁ、叶うかは分からないけど」
笑いながら言うと、彼女は微笑みながら僕を見た。
「最初から悲観的では駄目よ。夢を持つのなら、叶えてやるっていう気概を持たなくちゃ」
「そうだな」
彼女は僕が夢を語った事に嬉しがっていた。そして僕の夢を応援してくれた。
「私も自分の夢を叶えるから、貴方も自分の夢を叶えて。二人で一緒に、夢を叶えましょう」
その約束が、僕にとってどれだけ大きな存在になったのかは、言わなくても理解できるだろう。
僕はその約束を守れるように、努力をした。自分が過ごす一日の大半は小説を考えるように意識した。暇な時は物語のプロットを構成したり、すれ違う人を見ては、その人物を作品の登場人物に見立てて人物設定などを行った。
自宅に帰れば、パソコンを開き、意識が混濁するまで画面に文字を打ち込んだ。小説が出来上がれば、コンペディションや新人賞に投稿した。場面描写やキャラ設定、ストーリー構成を学ぶために、専門書を買い漁り、芥川龍之介や太宰治、三島由紀夫といった著名な作家の作品を血眼になって読み耽った。都合が合えば、彼女と会って互いの夢の進捗状況を話した。
僕も彼女のように夢を持ち、同じように努力をした。小説の事だけを考え、それを自身の核としてこの四年間を過ごしてきた。しかし、結局のところ、才能がなければどれだけ思いを言葉にしても、行動しても報われはしないのだ。
(続きにおきましては、むろの木歌碑にて閲覧できます)